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【古代史の論点】1.邪馬臺国とヤマト

ヤマタイ国はなかった

 それでは、「邪馬台国」はどのように読まれていたのだろうか。現代では、「やまたいこく」と呼ぶことが少なくないが、実は当時の読み方ではない。(中略)現代音では、「やまと国」が本来の読み方であろう。

     ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書)より

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書)
ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書)
岩波書店

邪馬臺国をヤマタイと呼ぶことに筆者は以前から不自然さを感じていた。
なぜヤマトと呼ばないのか?
臺という字の発音については、卑弥呼の宗女で後継者である臺與をトヨと読むように「ト」と発音するのが自然だと思う。
邪馬臺国とヤマトとが無関係と考える方が無理があると思うが、皆さんのご意見は?
ヤマタイ国という名に慣れた人にとっては、私の意見は妄言のように思えるかもしれないが、根拠がある。
推古朝、小野妹子を大使とする遣隋使節団とともに来日した裴世清は、608年に日本での見聞を帰朝後詳細に報告し、その一部が『隋書』倭国伝に採録されている。
「邪靡堆(ヤマト)に都す。すなわち魏志のいうところの邪馬台(ヤマト)なり」
裴世清か推古朝の誰かが嘘を言ったというのか?誤った情報を伝える必要性があったというのか?
素直に考えれば、ヤマタイ国論争は既に結論が出ている。
邪馬臺をヤマタイと無理やり読ませた、お偉い歴史学者のこじつけが、歴史教育をゆがめたまま今日に及んでいる。
いつになったら正常化するのか?

戦後切り捨てられた記紀神話

この国の成り立ちについて考察したい。
中央公論社「日本の歴史1」には「神話から歴史へ」という副題がつけられている。
日本書紀や古事記の神代についての記述は「神話」なので「歴史」から切り離すべきだという論調だったと記憶している。
ところが、神武東征の神話は、歴史的な出来事に裏付けがあったのではないかと考える人が出てきた。


邪馬臺国九州説で一貫してきた安本美典(みのり)氏が、北部九州と畿内大和周辺の地名と位置関係がリンクしているとして、一時センセーションを巻き起こした。
つまり邪馬臺国は九州から大和地方へ東遷した証しだというのだ。
広島から北海道へ移住した人々が郷里と同じ地名をつけたように、九州北部から東遷した邪馬臺国が郷里に準えた地名をつけたと考えるのは自然だ。
偶然といえない近似性が下図のように見られる。



卑弥呼なる人物がヤマト王権に存在しないので「邪馬臺国⇒ヤマト王権」を否定する論者もいる。
しかし、記紀には卑弥呼に匹敵する女性が登場しているではないか。
つまり天照大神(アマテラス)である。
卑弥呼の没年に日食があり、アマテラスが天岩戸に隠れたのと比類出来る。
その後天岩戸から現れたアマテラスは、娘の臺與(トヨ)である。


天の岩戸と日食


2000年前の月の運動や地球の自転速度、地軸の傾きなど誤差があるかもしれないが、247年3月24日に日入日食が、248年9月5日に日出日食があったと考えられる。
二年の間に二回の皆既日食は古代人の心に鮮烈な印象を残したことだろう。

国譲り神話


アマテラスの弟とされる素戔嗚(スサノオ)の子孫、大国主命から国を譲られ神武(カムヤマトイワレビコノミコト)が初代天皇となる。
そしてその子孫の雄略天皇(ワカタケル)が「治天下大王(アメノシタシロシメスオオキミ)」となる。



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考古学からの反論

しかし「邪馬臺国⇒ヤマト王権」説には重大な反証がある。
卑弥呼の時代の遺跡とされる纏向遺跡をはじめ、畿内の遺跡に大陸系遺物が少ないのだ。
大陸と積極的に繋がろうとし、銅鏡を下賜された卑弥呼。
『魏志』に「卑弥呼以て死す 大いに家を作る 径百餘歩 徇葬する者奴婢百餘人」と書かれた卑弥呼の墓とされ、最古の前方後円墳とされいる「箸墓古墳」。
それら纏向遺跡から大陸系の遺物が発掘されないのだ。
記紀によると箸墓古墳に埋葬されたのは倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)。孝霊天皇の皇女で、三輪山の大物主神と結婚し、神のお告げにより崇神天皇を助けた。最期は夫の正体が子蛇であることを知り、箸で陰部をついて亡くなったことから「箸墓」の名がある。
日本書紀では垂仁天皇の時に「珠城宮」、景行天皇の時に「日代宮」という都を纏向に作ったとされている。
巨大な宮殿跡に使われていた材料から、中塚武教授(名古屋大学)は建造年月日を231年と推定する。卑弥呼が「親魏倭王」となる8年前だ。
箸墓古墳の成立年代は、250年頃。
卑弥呼の没年とされる247年と重なる。


対する九州では発見があった。
大分県日田市にあるダンワラ古墳 から魏の曹操が用いたのと同型式の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が見つかったのだ。
時代背景から考えると卑弥呼が使っていた物に間違いない。


第10代崇神天皇と纏向遺跡

日本書紀で「ハツクニシラススメラミコ」と呼ばれる第10代崇神天皇は、纏向遺跡の近く磯城瑞籬宮(桜井市金屋)、その子垂仁天皇は纏向珠城宮(桜井市巻野内)に都していた。
箸墓についても記述があり、第7代・孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる。

考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国
考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国
梓書院



年表

210頃   卑弥呼を倭国王に共立
231頃   纏向遺跡の宮殿が建造される
239 6月 卑弥呼が、大夫の難升米を帯方郡に遣わし、魏の明帝に朝献を求める。
239 12月 魏の明帝が卑弥呼に「親魏倭王」の称号を下賜する。  
240    魏より銅鏡100枚を賜る
247           卑弥呼没する
240~250 箸墓古墳

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